「階級関係」ストローブ=ユイレ

カフカの「アメリカ」を原作にしたストローブ=ユイレの1986年の作品
登場人物のほとんどを素人が演じている。で、見てて気になったのはその素人の演技。
素人の演技は当然訓練されてないので、プロの役者に比べて身体がうまく制御されていないように見える。
プロの役者の演技は、些細な動作、例えば瞬きですら「演技」のために行われていて、それが映画のフレームの中では自然に見える。けどこの映画に出てくる人物たちの些細な動作は「演技」へとは向かっていない。
細部としての些細な動作が、全体としての演技へと向かって無い感じ。
素人の演技は、細部が全体に奉仕しないから、その些細な瞬きとか、呼吸とかが見ていてすごく気になってくる。
でも、僕らが普段他人の瞬きとか、呼吸が気にならないのは、それが演じられているからではないけども、単純に生きるための、生のベクトルに価値づけられ、方向付けられているから。それは役者が演技することで些細な動きを統御するのに近いことなんじゃないかと思う。

で、無理な繋げ方かもしれないけど、カフカのこの物語自体にもそれに近い事が言えるんじゃないかと思う。歌を歌わない歌手とか、象徴的なモチーフは出てくるんだけど、それはそのままというか。物語の中で起きる(些細な?)出来事がオチ、帰結に奉仕しない。カフカはよく非日常とか、不条理とかのイメージで語られるけど、先述した演技と些細な動作の話をふまえると、そういったイメージとはちょっと違うってことが見えてくる。