今日は久しぶりに

iccいってきますた。
作品も見たかったんですが、僕の重い腰を上げさせたのは今日のシンポジウム。
大澤真幸、郡司ペギオ幸夫、ハンス・ディープナー、マルコ・ペリハン。
という豪華なメンバー。こつこつ思い出しながら、思った事とかも含めてメモります。


やはり、内在物理学、内部観測な話が中心。前にここのwikiでもちょっと書いたように、
情報の系を扱うということは、実際の物理的な変化、移動無しに起きる情報の創発を観察しなくてはいけない。
なので内部観測の問題抜きで情報の系を内包したシステムを語ることは難しい。
「リンゴが自由落下を知っているか?」


普通に印象に残ったのは、ハンス・ディープナーが、ソフトをつかってローレンツアトラクターを3Dで描画して、
その内部を(アトラクターのレール?トンネル?)移動する映像。シンプルだけど、それでもいいんだ。
と、なんか救われた感じ。


「観察することで、観察者が現れる」→大澤真幸の言うところの「第三者の審級」でいいのかな?
現象の事後に観察を記述することで、あたかも観測者がその現象の瞬間に居たかのように現れる。
先週の河本英夫の授業で出た課題で、
「ある系の中にある、情報の系(内部観測者)は、どの時間、時制に在るのか?」
みたいな話があったけど、その話に似てる。
現象、創発は常に観察、記述に先行していて、
内部の構成要素は、客観的な観察を欠きながらも、外部の観測者に観測材料を提供する。


部分と全体の齟齬。痛み。
厳密に、体温を計るということについて言うと、
その計測点は、1点(脇の下)なので、身体全体が平衡系でなければならない。
そうでなければ、身体の体温が~℃という言い方が出来ない。


でも実際の身体は、平衡系とはほど遠い系。なので、その系の中で、異常に発熱する可能性が期待される。
だからこそ、異常な体温→病気という話が成り立って、体温を計ることの意味が出てくる。
このズレに部分と全体の齟齬を見る、そのズレを内包したダイナミックな系。


観測することで、今まで観測(言語化)されていなかった部分が実体化する。その時に消してしまっていた、
いまだに残る言語化されていない残余の部分をつなぎとめるための、"のりしろ"としての観測の接触の痛み?
痛み、が変な感じを受けるのは、観察よりも前にあって、(痛み、も観測される?)
現象より後にある、なにか一瞬のインパクトというか、純粋な運動というか。。



うーんだいぶ忘れてるような。違うような。こんどからちゃんと聴きながらメモ取ろう。
もっと勉強せねば。内部観測難しい。コミってるコミってるorz


関係ないけど岡崎乾二郎藤幡正樹を見かけました。
あとムナーリの本とか玩具を見てきた。なかなか素敵。
ムナーリのモワレとか、フラクタルなアプローチが面白かった。そんな一日。