crest

今日はetoさんに教えてもらったCrestという研究会の
「『描く』を科学する」というシンポジウムにいってきました。
夕方の第二部からみてきました。岡崎乾二郎藤幡正樹目当て。てへ。ミーハーでごめんなさい。
研究としては、絵を描くロボット等を作る事で、描くとはどういう事なのかという事を考えていくみたいな方向性。


たぶんこれ↓
http://www.jst.go.jp/pr/info/info111/shiryou4-3.html


いちおう覚えてる限りでメモ。全体の流れなんて把握してないし、そんなものはあったのかも怪しいので
本当に覚えてることと感じた事だけメモ


第二部のシンポジウムのメンバーは岩田誠、岡崎乾二郎藤幡正樹、桂英史という4人。
最初は藤幡正樹のプレゼンでこの研究の概要と、"見る"と"描く"ことについての、
モジュール的にプロセスを追った仮説の紹介。
「見る」と「描く」という事だけでも複雑なプロセスをおっていて、
さらに、見る事と、描く事の間に既にもっているイメージがあって、
それによって確実に見る事と描く事は切断されていると。


次に岩田誠の脳からみた絵画というテーマのプレゼン。
うーん。なんか言われるとうっすら納得するけど実感としては違うみたいな。
特に網膜上の細胞分布とレンブラントの絵画を結びつけた話はちょと頂けない。
でも、見る事について科学的な広がりを持てたのは良かった。


で、最後に岡崎乾二郎の話。
写生/写真/図形/しみ を体系として絵画とは何か、という話。
デューラーの遠近法の実験の小話とかセザンヌの真ん中のリンゴの話は初耳。カズンズ素敵。
あとホリエモンチェルフィッチュとハートで感じる英会話(笑
ああいう余裕のあるプレゼンが出来るようになったら素敵。
確定しない自己の不安(外へ入れ子的にずれる主体によって出てくる可能性という不安)から、
差延される感情。チェルフィッチュの〜かもしれないし〜とおもったけども〜みたいな〜みたいな。
チェルフィッチュの真似をする乾二郎ギザモエス!!!!



で、その後4人でディスカッション。
藤幡正樹の話で、チューリングテストの話。
もともとチューリングテストは、男と女で行なうテストの話だった。
男女どちらかが、違う性別を演じているのを当てるテストだった。
つまり、男を演じてる女を当てるテストであったり、
女を演じてる男をあてるテストであったりすることになる。
そうするとちょと意味が変わってくる。
そのへんから模倣とかの話に。この辺から議論は錯綜。
似顔絵、モンタージュの話。乾二郎ギザアクロバティック!!!クオリティタカス!!!
ipod藤幡正樹ってwwwwちょwwwおまwwww
ペンとipodしかなくて、どっちが藤幡正樹かといえば、ipod藤幡正樹という選択。と対応。正当化。
最初の画龍点睛。自己と対象(モチーフ)は不確定で、言葉なり絵画自体で暫定的に確定する。
ベイトソンのイルカ→乾二郎の犬 


ロボットを作る事自体がアイロニー。ロボットに絵が描けたら人間はロボットという事になってしまう。
藤幡正樹いわく「我々も研究してるフリをしてるんですよ」的な落語オチで閉幕。




その後で友人と喫茶店で話してたこと。
見る事をインプットとして、描く事をアウトプットとするのは、
ある具体的なシステムを実現するために不可避な方法ではあるけども、
必ずしも一方向に進むのではなくて、描く(描いた)ことが、そのまま描く事を要請したり、
見る事がアウトプットになるようなシステムの作動もあり得るのだと思う。(それはフィードバックでシステムを評価するのとも違くて。)
つまりは、絵画制作における絵画を単に成果物として捉えてはダメで、最後の方の議論で出てきたように、
意識や意味は言葉自体や、絵画(作品)自体にあって、自己と対象は常に不確定で不安なものだと。
言葉や絵画自体で、ピンで留めるようにして、初めて暫定的に自己と対象が確定的な意味を持つのだと。
極端に言えば、何か行為してから初めてそれが絵画制作という行為だ、意味だ、と分かるような。
ロボットが絵画を描くのではなくて、
岡崎乾二郎が言ったように「絵画がロボット」といった意味はそういったところにあるんだろうと。
その後もいろいろくだらない話をして終了。


なんか色々大事な事忘れた気がするけど眠いので勘弁。とりあえず忘れたという事を覚えておいて寝ます。